現代語訳
英虞郡御座村地誌
 

  (訳者解説)上記の作品は、明治20年に作られた御座で一番古い郷土地誌であり、「志摩町史」に集録されている。原本は市が保管し、後の大正14年に御座小学校が編纂した「御座郷土史」と合本になった「御座村郷土地誌」として御座小学校内に保管されている。
 分量的に一挙にUP出来ず、「御座学勉強会(生涯教育の<御座学教室>を兼ねる)」で取り上げ次第、順次UPしていく予定です。番号は原本にはなく、訳者がつけた。
 尚、現代語訳には、森田幸利と三橋浩があたった。尚、「御座海域漁場名」のマッブ作成は西井秀幸があたった。


[ 1]志摩國英虞郡御座村

 古い時代、本村は英虞郡名錐郷に属すると言われている。本村は古い時代には胡佐村と称し、郡の南極に位置しており、大洋に望んで海濱に突出している岬島の一村であった。後世、御座村と改称する。しかしながら名付けた村名については詳にしていない。
 附記
 古老の口牌によれば 古い時代に 大神宮が御迂幸になる際に、 しばらく当村に御鎮座になったことがあるので、これより御座村に轉訛したと言われる。。編者はあえて嘴をいれず、しばらくは後の考えを待つのみである。
 郡の西端に位置し、崎島半島の突端を占め、北は浜島町と相対して英虞湾に接し、東部の一面のみが陸続きとなっている。越賀村に連り、他の三面は外界あるいは内海に面している。

[ 2]疆域 (境界のこと)
 東南の二面は山嶽あるいは山林等をもって本郡越賀村に(接している。)
 本村元標より東方は、字大浦海湾と山の間より起線し、山の尾を南に登り、字小浦に着く迄は、自ら山の尾で越賀村と分界し、それより山岳を遠く西に亘り、字神上にて南に折れ、里道島道に至る間は、皆山岳を以てこれまた越賀村と境界を劃し、その嶌道を西ヘ横に断ちきり、字八王子の東南に添って、字日和に至る迄は互いに山の峯で越賀村と境界を接し、次いで山林の間を屈曲しつつ南に延び、字細田で西に巡り、南海岸に達す間、山林の中間を以て越賀村界を劃って終わる。
 西一面は南海に接し、北一面は海湾を隔てて、本郡浜島村に対している。

[ 3]幅員
 東西三十二町
十間(約3.6km)、南北十八町丁四十間(約2.0km)
 面積 〇.一七八方里(約2.8㎞2

[ 4]管轄沿革
 人王11代垂仁天皇(前29~後70とされている)の御代25年目の春、伊雜宮が当國に御鎮座になった後、神宮の供用地となったが、保元年中(1156~1158)に橘宗忠の所領に属するに至ったが、永正年中(1504~1520)に佐治隼人の領するところとなり、伊勢國司の北畠機親に隷属する。
 永禄年中(1558~1570)、織田信長がこの地を押奪し、九鬼嘉隆に与える。これにより九鬼氏が鳥羽城に居住する。(九鬼家の二代は嘉隆と守隆)寛永11年(1634)には内藤忠重(内藤家の四代は忠重・忠種・忠次・忠勝)の所領するところとなり、延寳8年(1680)に幕府の直轄(公領と称する)となり、代官として古郡重年が鳥羽に来て、管治する。
 天和元年(1681)、鳥羽城主となった土井利益の所領となり、元禄4年(1691)に松平乗邑に代り、宝永7年(1710)、板倉重冶の領するところとなり、享保2年(1717)に松平光慈の所領に属し、同10
年(1725)に稲垣昭賢がこの城に来て所領するに至ると、本村もまたここに属する。(稲垣家の八代は昭賢・昭央・長以・長續・長剛・長明・長行・長敬)
 明治元年(1868)8月14日、稲垣氏が版籍を奉還し、鳥羽藩廳に属する。同2年7月17日に鳥羽縣となり、同4
年1月22日に度会縣の所轄となり、同9年4月18日に度会縣を廢し、更に三重縣の管轄に属する。
(志陽畧
志、三國地誌、志摩旧地考、武家盛衰記、日本沿革概表による)

[ 5]里程

 三重縣廳へは子(北)の方へ向け(本村元標より東の方に向かい、志摩の國で謂われる志摩道を経て答志郡上ノ郷に至り、次いで志摩路道を通り、度会郡宇治に出て、それより伊勢街道を経て)廿三里拾壱丁四拾五間(91.3km)の距離がある。
 安濃津始審裁判所山田支廳ヘは子(北)の方へ向け(本村元標より東に出て志摩道を経て答志郡上ノ郷に至り、それより志摩路道を通り、度會郡宇治に出て、伊勢街道より山田に達し)拾三里拾丁四拾五間(52.2km)の距離がある。
 山田驛ヘは上
(原文では、右)に同じ。
 
英虞郡役所ヘは丑
(北北東)の方へ向け(本村元標より東に出て、志摩道を経て、答志郡磯部に至り、それより五知村、白木村、松尾村、岩倉村、及び船津村の数ケ村を経て、鳥羽に出て)拾貳里貳丁四拾五間(47.3km)の距離がある。
 鳥羽警察署ヘは上
(原文では、右)に同じ。
 本郡越賀村元標ヘは東の方へ向け、廿四丁四拾五間(2.69km)の距離がある。
 同じく、濱島村元標ヘは北の方へ向け、海上廿五丁(2.72km)の距離がある。
 (但し本村の元標は字里の里道濱島道にある。)
         *村役場のあったところか?     

[ 6]地勢

 西一面は南海に臨み、北は海灣を擁して濱島村と相對し、東南の二面は岡や山が幾重
にも重なり、本郡の越賀村と境域を画し、田畑やその溪間に散在する地表は凸凹があることからのがれられない。地を耕して柔らかくするには不便である。
 村の中央には里川及び白濵川の二つの川があるけれども、舟を漕いで行くには不便である。陸路は、又、難しく、車を曳いて通れない。
 海岸の多くは髙く険しく、船舶が留まるには不便であるといえども、景色を望むには風光明媚であり、極めて絶佳である。
 地勢では中央がゆるやかになっており、東西に長く、南北に短い。岬頭は海中ニ険しく入り込んでおり、北では海水が灣をなしており、漕ぎ舟が常に往来し、百貨ノ品の運搬にには最も便利である。
 ただ、山地は石でごつごつしているところなので、自然と薪材が欠乏していることを告げているのみである。又時には、波濤の被害をうけることがある。

[ 7]地味
 西北の海岸に接する地は概ね砂であるので、その地質は軟らかい。東南の越賀村に接する地は赤白土で、砂礫が混じり、その地質は剛硬であるので、地味は石でごつごつしており、甘薯や適宜な稲、粟あるいは疎麦づくりには適していない。
 耕地の灌漑は雨のたまり水に乏しく、ただ溪間の泉水を用いるのに、地表が凸凹しているので、水利が不便である故に、しばしば日照りには苦労する。その上、安政元年(1854)11月4日の大地震の時、沿海の地は沃土が陥没し、その後、潮水が侵入して田畑の害が少なくなかったと言う。

[ 8]税地
 明治5年調
  田7町6反4畝28歩=22948坪()
  畑5町8反6畝18歩=17598坪()
    但し以前には宅地の地目は畑地に編入されているので、反別はこの内   に含まれている。
              総計13町5反1畝16歩=40546坪()
 同8年調
  田14町1反4畝3歩=42423坪
  畑26町3反4畝5歩=78425坪
  宅地3町9畝27歩=9297坪
  山林94町6反7畝24歩=284034坪
  原野1町2畝27歩=3627坪
  雜種地2反1畝6歩=636坪
              総計反別139町5反2歩=418502坪
 同9年調
  田14町5反6畝26歩=43520坪
  畑26町8反1歩=80401坪
  宅地3町2反7畝27歩=9837坪
   小計 反別44町6反4畝24歩=133944坪
 明治13年調
  山林179町2反7畝15歩=537825坪
  原野1町6反8畝13歩=5053坪
  雜種地5反9畝20歩=1790坪
   小計 反別181町5反5畝18歩=544668坪
               総計反別226町2反12歩=678612坪

[ 9]字地
 西北の海岸に接する地は概ね砂であるので、その地質は軟らかい。東南の越賀村に接する地は赤白土で、砂礫が混じり、その地質は剛硬であるので、地味は石でごつごつしており、甘薯や適宜の稲、粟あるいは疎麦づくりには適していない。
 耕地の灌漑は雨のたまり水に乏しく、ただ溪間の泉水を用いるのに、地表が凸凹しているので、水利が不便である故に、しばしば日照りには苦労する。その上、安政元年(1854)11月4日の大地震の時、沿海の地は沃土が陥没し、その後、潮水が侵入して田畑の害が少なくなかったと言う。

1. 大浦
 本村元標より辰(東南東)の方角にあり、北一面は浜として内海に接し、東南の二面は越賀村と隣りあい、西は字小浦と界を立てている。
 東西百九十間(341m)、南北二百二十五間(405m)

2. 小浦
 本村元標より辰(東南東)の方角にあり、北は海岸に臨み、東は字大浦に接し、南は越賀村と隣りあわせ、西は字浦と界を限る。
 東西五百間(900m)、南北二百二十五間(405m)

3. 浦
 本村元標より辰(東南東)の方角にあり、北一面及び東半面は海に連なり、同じ東半面は字小浦に沿い、南は越賀村に接し、西は字神上、不動山、及び宮ノ前を界とする。
 東西二百八十間(504m)、南北三百五十間(630m)

4. 宮ノ前
 本村元標より辰(東南東)の方角にあり、北は海に臨み、東は字浦に沿い、南は字不動山及び松山に連り、西は字長峯及び鍔井戸に界を交える。
 東西百八十間(324m)、南北百三十間(234m)

5. 不動山
 本村元標より巽(東南)の方角にあり、東は字浦に沿い、南は字神上に接し、西は字松山に連り、北は字宮ノ前を界とする。
 東西百拾間(198m)南北六拾五間(117m)

6. 神上
 本村元標より巽(東南)の方角にあり、東は字浦に接し、南は越賀村と隣りあわせ、西は里通嶋道を限って、字八王子に接し、北は字松山及び不動山と界を立てている。
 東西二百間(360m)南北三百十五間(567m)

7. 松山
 本村元標より巽(東南)の方角にあり、北は字長峯及び宮ノ前に連り、東は字不動山に沿い、南は字神上に接し、西は里道嶌道を以て字八王子及びクニシを界とする。
 東西百二十五間(225m)、南北百間(180m)
8. 長峰
 本村元標より巽(東南)の方角にあり、北は字鍔井戸に接し、東は字宮ノ前に沿い、南は字松山に接し、西は字クニシ、大キウアン、堂ノ上及び城山に連接する。
 東西百間(180m)、南北百廿間(216m)

9. 鍔井戸
 本村元標より東の方角にあり、東北の二面は海に臨み、西南の二面は字宮ノ前、長峯及び城山と界を立てている。
 東西二百十五間(387m)、南北百三十五間(243m)

10. 城山
 本村元標より東の方角にあり、東は字鍔井戸及び長峰に連り、南は字堂ノ上に沿い、西は字里に接し、北は海に界を限る。
 東西六十間(108m)、南北五十五間(99m)

11. 堂ノ上
 本村元標より巽(東南)の方角にあり、北は字城山に沿い、東は字長峯に接し、南は字大キウアンに連り、西は字里を界とする。
 東西四十間(72m)、南北三十五間(63m)

12. 大キウアン
 本村元標より巳(東南南)の方角にあり、北は字堂ノ上に沿い、東は字長峰に接し、南は字クニシに連り、西は字里を界とする。
 東西四十間(72m)、南北三十間(54m)

13. クニシ
 本村元標より巳(東南南)の方にあり、北は字里及び大キウアンに連り、東は字長峰及び松山に沿い、南は字八王子に接し、西は前田を界とする。
 東西六十間(108m)、南北百五間(189m)

14.八王子
 本村元標より南の方角にあり、北は宇蛸ヶ谷、前田及クニシに連り、東は字松山及び神上に接し、南は越賀村と隣りあわせ、西は字長曽を界とする。
 東西二百十間(378m)、南北四百六十五間(837m)

15.蛸ヶ谷
 本村元標より南の方角にあり、東南の二面は字前田及び八王子に連り、西北の二面は字大谷で界を立てている。
 東西八十五間(153m)、南北百二十五間(225m)

16.前田
 本村元標より南の方角にあり、北一面及び東半面は字里に接し、同じく半面は字クニシに沿い、南は字八王子及び蛸ヶ谷に連り、西は字大谷及び里と界を分断している。
 東西六十間(108m)、南北百三十間(234m)

17.里
 本村元標の在地であり、人家は稠密になっている。北は海に接し、東は字城山道ノ上、大キウアンに連り、南は字クニシ、前田及び大谷と交わり、西は字ソウス及びマサキを界とする。
 東西百十間(198m)、南北百四十間(252m)

18.マサキ
 本村元標より西の方角にあり、人家ノ在地であり、北は字西ノ山に接し、南は字ソウズに沿い、西は字逢神を界とする。
 東西百四十五間(261m)、南北百四十間(252m)

19.ソヲス
 本村元標より西の方角にあり、北は字マサキに接し、東は字里に沿い、南は字大谷に連り、西は字逢神を界とする。
 東西百十間(198m)、南北百十間(198m)

20.大谷
 本村元標より南の方角にあり、北は字ソヲズ及び里に連り、東は字前田及び蛸ヶ谷に交り、南は字長曽及びヒヨウに接し、西は字牛丸及び逢神に界を立てている。
 東西二百十五間(387m)、南北二百四十五間(441m)

21.長曽
 本村元標より南の方角にあり、北は字ヒヨウ及び大谷に接し、東は字八王子に沿い、南は越賀村及び日和に連り、西は字ト部、松本、シタラ谷及大クヒリを界とする。
 東西三百七十間(666m)、南北三百間(540m)

22.ヒヨウ
 本村元標より未(南南西)の方にあり、東北の二面は字戀路、牛丸及び大谷に連り、南は字長曽に沿い、西は字大クビリ及び高曽を界とする。
 東西百三十間(234m)、南北二百二十間(396m)

23.牛丸
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、東は字大谷に沿い、西南北ノ三面は字ヒヨウ、戀路、岡﨑及び逢神を界とする。
 東西六十五間(117m)、南北八十五間(153m)

24.岡﨑
 本村元標より酉(西)の方角にあり、東北南の三面は字逢神及び牛丸に連接し、西一面は字戀路に界を立てている。
 東西五十間(90m)、南北九十間(162m)

25.逢神
 本村元標より酉(西)の方角にあり、北は字西ノ山に接し、東南の二面は字マサキ、ソヲズ、大谷及び牛丸に連り、西は字岡崎、戀路及びカブチを界とする。
 東西六十間(108m)南北百間(180m)

26.西ノ山
 本村元標より酉(西)の方角にあり、東西北の三面は海に臨み、南一面は字マサキ、逢神、カブチ及び地蔵に界を立てている。
 東西二百十間(378m)、南北九十間(162m)

27.カブチ
 本村元標より酉(西)の方角にあり、東北の二面は字西山及び逢神に連り、南は字戀路に沿い、西は字地蔵を界とする。
 東西三十五問(63m)、南北六十間(108m)

28.地蔵
 本村元標より酉(西)の方角にあり、東北の二面は字西ノ山、カブチ及び戀路に連り、南は字須田に沿い、西は海を界とする。
 東西六十間(108m)、南北七拾間(126m)

29.戀路
 本村元標より酉(西)の方角にあり、東北の二面は字カブチ、逢神、岡崎及び牛丸に連接し、南は字ヒヨウに接し、西は字須田及び地蔵を界とする。
 東西二十間(36m)、南北百間(180m)

30.須田
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、北は字地蔵に接し、東は戀路に沿い、南は字髙曽に交り、西は海と界を限っている。
 東西五十間(90m)、南北五十間(90m)

31.髙曽
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、東北の二面は字ヒヨウ、須田及び海にニ連り、西南ノ二面は字大クビリ、仲田及び小山岡を界とする。
 東西百二十間(216m)、南北二百十間(378m)

32.小山岡
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、西北の二面は海に接し、南は字仲田に沿い、東は字髙曽を界とする。
 東西四十間(72m)、南北四十間(72m)

33.仲田
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、東北の二面は字大クヒリ、髙曽、小山岡及び海に連接し、西南の二面は字蔵本、神ノ木を界とする。
 東西八十間(144m)、南北百七十間(306m)

34.神ノ木
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、東南北の三面は字仲田に接し、西は字蔵本及び字南郷に界を限っている。
 東西六十五間(117m)、南北百間(180m)

35.南郷
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、北は海に接し、東は字仲田及び神ノ木に沿い、南は字蔵本に連り、西は字佐田を界を限っている。
 東西七十間(116m)、南北九十間(162m)

36.蔵本
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、北は字南郷に沿い、東は字神之木及び仲田に連り、南は字大クヒリに接し、西は字佐田を界とする。
 東西八十間(144m)、南北百間(180m)

37.大クヒリ
 本村元標より坤(北西)の方角にあり、北は字蔵本、仲田及び髙曽に連り、東は字ヒヨウ及び長曽に接し、南は字シタラ谷及びアラミ谷に沿い、西は字佐田を界とする。
 東西百六十五間(297m)、南北百三十五間(243m)

38.アラミ谷(アザラシ?)
 本村元標より坤(北西)の方角にあり、東北南の三面は字佐田、大クビリ及びヒシタラ谷に連接し、西一面は海に界を限っている。
 東西百五十間(270m)、南北九拾五間(171m)

39.シタラ谷(ミタラ?)
 本村元標より坤(北西)の方角にあり、北は字大クビリに接し、東南の二面は字長曽及び松本に連り、西は字アラミ谷及び海に界を立てている。
 東西五十五間(99m)、南北百三十間(234m)

40.松本
 本村元標より坤(西北)の方角にあり、北は字シタラ谷に沿い東は長曽に接し、南は字ト部に連り、西は海に界を限っている。
 東西六十間(108m)、南北百三十五間(243m)

41.ト部
 本村元標より未(南南西)の方角にあり、北は字松本及び長曽に連り、東南の二面は字日和に沿い、西は海と界を限っている。
 東西百間(180m)、南北百六十間(288m)

42.日和
本村元標より南の方角にあり、北は字長曽に接し、東は越賀村と隣りあい、南は字細田、クザキに連り、西は字池田、ト部及び海と界を交えている。
 東西三百七十間(666m)、南北二百六十間(468m)

43.池田
 本村元標より未(南南西)の方角にあり、東北の二面は字日和に接し、南は字クサキに沿い、西は海と界を限っている。
 東西百二十五間(225m)、南北八十間(144m)

44.クザキ
 本村元標より南の方角にあり、北は字池田及び日和に連り、東南西ノ三面は字カウカダレ及び小山と界を立てている。
 東西二百五十間(450m)、南北百間(180m)

45.細田
 本村元標より南の方角にあり、北は字日和に接し、東南の二面は越賀村に接し、西は字カウカダレを界とする。
 東西百五十五間(279m)、南北二百三十間(414m)

46.カウカダレ
 本村元標より南の方にあり、東は字細田に接し、南は越賀村に接している。西北の二面は字岩井鼻、小山及びクザキを界とする。
 東西百三十間(234m)、南北百二十間(216m)

47.小山
 本村元標より南の方角にあり、東北南の三面は字池田、クザギ、カウカダレ及び岩井鼻に連接する。
 東西百間(180m)、南北百六十間(288m)

48.岩井鼻
 本村元標より南の方角にあり、北は字小山に接し、東は字カウカダレに沿い、西は海を界とし、南は越賀村を界とする。
 東西六十五間(117m)、南北六十間(108m)

49.佐田
 本村元標より坤(南西)の方角にあり、北は字白山及び海に連り、東は字南郷、蔵本及び大クビリに接し、南は字アラミ谷及び海に接し、西は字カウカを界とする。
 東西百九十間(342m)、南北二百十五間(387m)

50.白山
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、北一面は海に臨み、東南の二面は字佐田及びカウカに連り、西は字水尻及び釡ヶ谷を界とする。
 東西百四十間(252m)、南北百四十間(252m)

51.釡ヶ谷
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、北は海に接し、東南の二面は字白山に沿い、西は字水尻に界を限っている。
 東西六十間(108m)、南北百三十間(234m)

52.水尻
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、北は海に臨み、東は字釜ヶ谷及び白山に連り、南は字カウカに沿い、西は字新山を界とする。
 東西九十間(172m)、南北百四十間(252m)

53.カウカ
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、北は字水尻及び白山に連り、東は字佐田に接し、南は海に臨み、西は字新山を界とする。
 東西百五十間(270m)、南北八十五間(153m)

54.新山
 本村元標より申(西南西)の方角にあり、北は海に臨み、東は字水尻及びカウカに連り、南は海を界とし、西は字岬山に界を限っている。
 東西四十間(72m)、南北百八十間(324m)

55.岬山
 本村元標より申(西南西)の方にあり、西南北の三面は海に臨み、東一面は字新山と界を立てている。
  東西二百二十間(396m)、南北二百十五間(387m)

御座学教室よりの付記
(地誌にはありませんが、下記の絵図をUPしておきます。この絵図の元は旧志摩町が所有していた字名つき志摩町絵図です。ご参考ください。)




[10]貢租
 地租米89石6斗8升8勺8才(13,452,132g)但し1合=150g  明治5年調
 地租米89石6斗8升8勺8才(13,452,132g)           同8年調
 地租金353円40銭8厘 (現在推定353万相当)         同9年調
     附記
 地租金305円71銭3厘 (現在推定305万相当)         同13年調
        但山林租共

[11]戸數
 本籍 151戸
 社2戸(内 村社1戸 雜社1戸)
 寺1戸(禅宗)
  総計=154戸               明治8年12月31日調
     附記
  戸数
   本籍154戸(平民)
   社2戸(内 村社1戸 雜社1戸) 
   寺1戸(禅宗)
    総計=157戸              明治16年1月1日調

[12]人口
 本籍  男402人(平民) 女503人(平民)
 寄留  男10人  女4人  計=14人
      (内 出寄留男3人 入寄留男7人、女4人)
  総計=919人 内 出寄留 14人 
              明治8年12月31日調
     附記
  人口
   本籍 男404人 平民  女506人 平民
   寄留 男12人  女8人  計20人
      内 出寄留 男3人  入寄留 男9人女8人
  総計930人 内 寄留 20人 
                明治16年1月1日調

[13]舟車
日本形船 240石積 1艘  110石積 1艘
      167石積 1艘  104石積 1艘
      54石積  1艘  漁舩 130艘
       総計135艘 明治8年12月31日調
        附記
 同    240石積 1艘  110石積 1艘    
      167石積 1艘 104石積 1艘  
      54石積  1艘  漁舩 135艘
       総計140艘  同 16年1月1日調


[14]山
  本村の東南に丘陵が畳重し、その山脈が本郡越賀村より西に延びたところに、金毘羅山がある。(高さ45丈【135m:1丈=約3m】周回は定かでない。本村元標より巽位【南東の方角】にあり、樹木があり、登り道は細く、また麓まで達するには小道があるだけで、麓より嶺上までは小道もない。)
  この外、公称がなく、ただ私称によるものとして、はこべヶ岡(高さ48丈【144m】、周回は不詳だが、本村元標より南の方にあり、樹木があり、登り道は細く、また麓まで達するには小道があるだけで、麓より嶺上までは小道もない。)と浦山(高さ40丈【120m】、周囲は不詳だが、嶺上より二分して、南は本郡越賀村に属し、北は本村に属する。村の東位にあり、樹木があり、登り道は細く、また麓まで達するには小道があるだけで、麓より嶺上までは小道もない。)
 その外、所々に岡陵起伏の場所もあるが、私称なので載せない。

[15]川
 里川
 (無等級の川である。水の最も深い所で1尺5寸、浅い所で5寸。川幅は広い所で2間、狭い所で7尺である。堤防はなく、本村元標より巳《南南東》の方角、八王子山の溪水が集まり、字八王子の中間を北に流れ、字前田に移り、田野の水となり、字里にて人家の在地を曲流して海に入る。その長さは、8町58間【965m】で、水流は緩く、水は濁り、舟は通せない。但し橋下の水の深さは6寸以上1尺を出ていない。ことごとくは橋梁の目に記す?。)
 白浜川
 (無等級の川である。水の最も深い所は1尺、浅い所は5寸、川幅は広い所で2間、狭い所で5尺、堤防もなく、本村元標より牛【北北東】の方角、字長曽より起り、田野と山林の間を北流し、字ヒヨウに移り、田野の中間を通り、字須田にてやや西に流れ、海湾に入る。その長さは、9町40間【1044m】、水の流れ緩く、濁っているので舟は通せない。)
 御座渡
 (里道浜島道に属する。本村元標より北の方に隔たること1丁20間【145m】にある。水の最も深い所で25丈、浅い所は1丈2尺、長さは25丁【2700m】、海湾にあり、渡船2艘が出て渡している。)
 大橋
 (里道里中道に属する。本村元標から隔たること36間に、西に架けてあり、字里の里川の下流にある。橋下の水の深さは7尺、幅は2間、橋の長さは2間1尺、幅4尺で石造りである。)
 下ノ橋
 (里道里中に属する。本村元標より隔たること33間隔に、南に架けてあり、字里の里川の下流にある。橋下の水の深さは8尺、川幅は7尺、橋の長さは8尺3寸、幅4尺で石造りである。)

[16]森林
 鍔井戸林(本村元標より東の方角に隔たること2丁9間の字鍔井戸にあり、東西17間、南北16間、反別では二反九畝十七歩【2827㎡】の規模で、雜木の多くは松である。その内、最も大きいものでも囲りは八尺を越えず、丈は十間を出ない。以下、これより小さいものに至っては寸尺を挙げるまでもない。これらは民間の所有である。)
 逢神林(本村元標より西の方角に隔たること2丁37間の字逢神にあり、東西19間、南北17.5間、反別では1反9畝3歩【1891㎡】の規模で、雜木の多くは松である。その囲りは4尺より7尺を越えず、丈も10間までである。それより小さいものは枚挙するほどではない。民間の所有である。)
 岩井ヶ鼻林(本村元標より南の方角に隔たること22丁55間の字岩井ヶ鼻にあり、東西58間、南北38間、反別では8反5畝18歩【8474㎡】の規模で、松樹のみである。その内、最も大なるものは囲りでは3尺より6尺までである。小さいのでは8寸尺までである。民間の所有である。)
 池田林(本村元標より南の方角に隔たること17丁17間の字池田にあり、東西10間、南北28間、反別では一反二畝二十歩【1254㎡】の規模で、樹木は茂っている。松樹のみで囲りは三尺より五尺を越えない。丈も八間を超えない。民間の所有である。)
 岬山林(本村元標より西の方角に隔たること13町の字岬山にあり、東西210間、南北220間の規模で、樹木は繁茂している。松樹のみで、その内、最も大きなものの囲りは3尺から8尺を越えない。丈も長いので10間、短いのでは8寸尺を記すまでにはない。官有の所有である。)


[17]湖沼
 不動池(本村元標より辰【東南東】の方角に隔たること8丁の字不動山にあり、東西3間、南北7間、周囲20間、反別では1畝8歩【125㎡】の規模で、堤防がある。堤防の長さは7間、高さは7尺、馬踏7尺、根敷1丈であり、水門が1ヶ所ある。この水は延びて田の用水となっている。)
 地蔵池(本村元標より西の方角に隔たること6丁の字地蔵にあり、東西10間、南北12.5間、周囲42間、反別では3畝8歩【323㎡】の規模で、堤防もなく、堀に水が溜まっている。)

[18]道路
 島道(里道一等に属し、本村元標の許より起り、人家の在地をややしばらく南に出て、字クニシに移り、田野の中間を通し、字神上に附き、その字の界を南に延びて、八王子山峠のところで本郡の越賀村地内に入る。長さ11丁、幅は、広い所で6尺、狭い所は4尺、ただし本村元標より南の方角の里川の手前にして、里道と里中道とを支分する。)
 里中道(里道一等に属し、本村元標より南の方角、島道より西に分かれ、里川の大橋を渡り、ややしばらく西に出て北に折れ、またその川にある下橋を渡り、北浜に達する。その長さは、1丁30間で、幅は5尺である。)
 浜島道(里道一等に属し、本村元標より起り、人家の在地を北に通り、浜に出て、そこから御座渡を海上二十五町を経て、浜島村に達する。その里道の長さは28間、幅は5尺である。)

御座学教室よりの付記(『地誌』にはありません)
 ①現代の国道
   国道260号線 城山→里→前田→大谷→牛丸→ヒヨウ→長曽→越賀(鹿間)
   新国道バイパス 城山→堂ノ上→鍔井戸→長峯→宮ノ前→不動→越賀(荒尾)
 ②明治時代の御座絵図
(旧志摩町所蔵の絵図を一部改変してUP)
 




[19]港
 里前港(無等港に属し、東西百十間、南北百間余りである。干潮の時の水の深さは、二十丈を出る。暗礁はあるが、出洲はない。本村元標より北の方にあり、出入船は南風はよいが、西風はよく当たる。
 もっとも、ここは港とは言えない。しかし、浜島港がなければ、必ずここに大小船ともに停泊するのは言ういうまでもないが、わずかに二十五丁を隔てて浜島の良港があるので、みなそこに船をつないで、ここに停泊しない。だから港と言っても体裁は備わってない。遠客のみんなは、ここに港があるとはを知らないのは当然である。
 本村より輸出するところの貨物は、明治16年1月1日調べの概要では、
   石花菜(テングサ)は3万5千8百60貫、(1貫=3.75kg)
        代金8千2百51円55銭9厘、(1円=今の1万円相当か)
   石决明<アワビ>は8百50貫、代金3百40円、
           大阪府下あるいは名古屋、津及び宇治山田等へ送る。
   羊栖菜(ひじき)は、二百三十貫、代金百十五円、大淀及び土路西条に送る。
   鹿尾菜(ひじき)は6百50貫、代金は45円50銭である。
   上黒菜は、5万1千3百貫、代金8百10円、淡路に送る。
   若布は5百60貫、代金89円である。
   海苔は8百貫、代金32円、山田に送る。
   鶏冠菜(とさか海苔)は、38貫、代金15円20銭、大阪に送る。
   漁獲は、鰕<えび>4百52円、
       鰩<とびうお>は80円、
       烏賊<イカ>は、35円、
       鯛は65円、
       乾魚(干魚)は、3百20円、
       雜魚は1百57円50銭である。
 これらは、海産物であり、これらを合算すると総額は1万8百7円75銭9厘である。これらは、この港より先に記した所に送っている。だから、諸方よりの商客も多く、日々、七、八艘の往来船がある。しかし、いろいろと述べたが、近くに浜島港があって、本港は暗礁があり、且つ、西風の時は波浪が高いので、停泊を希望しても、客船はみな浜島港に停泊している。それ故に港と称するその仔細については編者がここにつけ加えるだけである。

[20]島(御座学教室注:○は方位名、△は長さ・広さを示す。もともと原本にもその部分は空白になっていた。尚、次の暗礁の項を含め、その不備を補うために、現在も使われている「御座海域漁場名」を参考としてUPした。

 六ノ島(本村元標より△の方角、岩井ヶ鼻より△位の方にあり、海上直径○を隔つ、東西○ 南北○の内、六ノ島がある。ゆえに名つけて六ノ島と称した。その周囲○間にして本村の著名の島とはいえ、なかせ礁の頭、水上に岩石が屹立するのみである。)

 ウツセ島(本村元標より△の方角、岩井ヶ鼻より△位の方にあり、海上直径○を隔つ、東西○ 南北○ 周囲○、六ノ島とヤスリ島に間にあって、これまた、なかせ礁の頭、水上に岩石が屹立するのみである。)

 ヤスリ島(本村元標より△の方角、岩井ガ鼻より△位にあり、海上直径○を隔つ、東西○ 南北○ 周回○、 ウツセ島の西にあり、本村の著名な島とはいえ、なかせ礁の頭、水上に岩石が屹立している七島を総称してヤスリ島という。)

 西石島(本村元標より△の方角、字岬山より△位の方にあり、直径○を隔つ、東西○ 南北○ 周回○にして、ただヒラ島のせ礁の頭、水上に岩石が屹立している。)

 絵帽子島(本村元標より△の方角、字岬山より△位の方にあり、海上直径○丁を隔つ、西石島と櫓枕折島の間にあって東西○ 南北○ 周回○にして、ただヒラ島のせ礁の頭、水上に岩石が屹立している。)

 櫓枕折島(本村元標より△の方角、字岬山より△位にあり、海上直径○丁を隔つ、東西○ 南北○の内、岩石が屹立する三島がある。これを合わせて、櫓枕折島と称する。その周回○にして、ただヒラ島のせ礁の頭、水上に岩石が屹立している。)

 前島(本村元標より△の方角、字岬山より△位にあり、直径○丁を隔つ、東西○ 南北○ 周回○にして、ただ暗礁の上に岩石が屹立している。)

 平山島(本村元標より△の方角、字岬山より△位にあり、直径○丁を隔つ。東西○ 南北○ 周回○にして、ただヒラ島のせ礁の頭、水上に岩石が屹立している。)

 魚ノ丸鼻島(本村元標より△の方角、岬山より△位にあり、海上直径○丁を隔つ。東西○ 南北○ 周回○にして、ただヒラ島のせ礁の頭、水上に岩石が屹立している。)

 御舟島(本村元標より△の方角、岬山より△位にあり、海上直径○丁を隔つ。東西○ 南北○ 周回○にして右に同じ。)

 大島(本村元標より△の方角、岬山より△位にあり、海上直径○丁を隔つ。東西○ 南北○ 周回○にして、右に同じ。)

 ホウカ島(本村元標より△の方角、字岬山より△位にあり、海上直径○丁を隔つ。東西○ 南北○ 周回○にして、ただ暗礁の上に岩石が屹立している。)

 海老島(本村元標より△の方角、字岬山より△位にあり、海上直径○丁を隔つ。東西○南北○ 周回○にして、ただ暗礁の上にこれまた、岩石が屹立している。)
チヤアソビ島(本村元標より△の方角、字岬山より△位にあり、海上直径○丁を隔つ。東西○ 南北○ 周回○にして、右に同じ。)

 ソラウチ島(本村元標より△の方角、字岬山より△位にあり、海上直径○丁を隔つ。東西○ 南北○ 周回○にして、これまた右に同じ。)

 子イ神島(本村元標より△の方角、字岬山より△位にあり、海上直径○丁を隔つ。東西○ 南北○ 周回○にして、右に同じ。)

 長崎島(本村元標より△の方角、字岬山より△位にあり、海上直径○丁を隔つ。東西○南北○ 周回○にして、右に同じ。)

[21]暗礁(注:○は方位名、△は長さ・広さを示す。もともと原本にもその部分は空白になっていた。)
シン山礁(一名タケノセ礁とも呼ばれる。本村元標より△の方角○丁にあり、東西○ 南北○ 干潮の時、水の深さ○にして、岩井ヶ鼻より○位にあり○を隔つ。この礁は御座第一の暗礁で、年々ここでの魚獲は、大きい。但し礁標はない。)

 ナカセ礁(一名ハコタ礁とも呼ばれる。本村元標より△の方角、○丁にあり、東西○ 南北○ 干潮の時の水の深さ○ 岩井ヶ鼻より△位にあり、○を隔つ。この礁に六ノ島あるいはヤスリ島、ハウツセ島等があって、最も著名な暗礁で、年々ここで大きく魚獲している。但し礁標はない。)

 ヒラ島のセ礁(本村元標より△の方角、○丁にあり、東西○ 南北○の内?字ヲキノヒラ島のせにして西のヤマのせを合わせて、総称ヒラ島ノセ礁という。干潮の時の水の深さ○ 字岬山より△位にあり○丁を隔つ。この礁には西石島、絵帽子島、櫓枕折島、平島、御船島、魚ノ丸鼻島、大島等があって、最も著名なる暗礁で、年々ここでも海老・アワビ等を多く魚獲している。但し礁標はない。)

 この外 
 大石ダシ礁、青ノ峰だし礁、アシカグロミ礁、ホソクロミ礁、チヤアソビ瀬礁、ツラウチ礁、ムツナ礁、イヤ井ピラセ礁等が所々に散在している。

[22]陸墓
 墓地(本村元標より、三町二十三間(365m)離れた西の方角の、字大谷にある。東西三十二間、南北十一間、面積四百二十坪、一村の埋葬地であり、一村の総持地である。)
 墓地(本村元標より、三町二十間離れた西の方角の、字大谷にある。東西八間、南北八間、面積六十九坪、一村の埋葬地であり、一村の総持地である。)
      附記
 墓地(本村元標より、一町離れた南西の方角の、字里の潮音寺境外にある。東西十五間、南北十三間、面積百六十五坪、この墓地は死骸を埋葬せず、ただ石碑を建てている。俗に言う引墓である。)

[23]社
 日吉神社(神社の格式は村社で、東西 南北 面積 本村元標より の方角にあり、字マサキにある。この神社の由来等は、元禄の頃本村は大火事にあい、保存する古書類の全部を焼失してしまった。古老の言い伝えによれば、本村創立の時より今の地に一祠を建て、奉祀した。境内には、老樹の楠がある。囲りは一丈五尺、長さは十二間、だいたい五百年余の歳月を過ごした木と思われる。その他、特記することはない。氏子は、百五十七戸、祭日は毎年旧十一月の「申の日」である。但し、その月に「申の日」が三度あれば中の「申の日」を祭日とした。また、二度の時は、後の「申の日」を祭日とした習慣が昔から残っている。)
 天真名井神社(社地は東西 南北 面積 本村元標より の方角、字宮前にある。祭る神は、田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命の三神である。この神社の由来は、日吉神社と同じようである。ただ社地は、古風であるが特記すべきことはない。祭日については、毎年書いておくことがある。)

[24]寺 (注:○は方位名、△は長さ・広さを示す。もともと原本にもその部分は空白になっていた。)
 潮音寺(本村元標よりj○の方角、字里にある。東西△ 南北△ 面積△  禅宗伊勢国度会郡朝熊村金剛證寺の末派(末寺)である。本寺の創立開基した年号干支等を尋ねても、元禄年間、本村の大火で本寺も類焼したので古書等ことごとく焼失してしまったので詳細はわからない。当寺の開山は、東岳佛地禅師より第九世にあたる忠央(御座学教室注:忠英の誤り)と言う僧が、天正四丁子年に再建したので、この僧を中興開山とした。しかし、文政三庚辰年五月八日に再び火災で焼失した。その後、文政五壬午年に僧の叡叟が一棟を建てた。今の堂である。明治十六年一月十五日、現住職の勝峯恵宏に至るまで第十六世と連綿としている。檀家は百五十七戸であり、他に特記事項はない。)

[25]学校
 人民共立仮小学校(本村元標より西の方角、字里の潮音寺内を仮校として、ここに通学する生徒は、男三十五人、女はなし、教員一名である。)
明治九年一月一日調べ
      附記
 明治九年四月二日、潮音寺で仮校舎だったが、明治十一年三月、本校を元標より東の方角、字クニシに新築開校した。生徒数は、日々増加して、教室も狭くなったため、再び元標より東ノ方角、字大キウアンに新築開校して御座小学校と称した。生徒数は、男六十七名、女三十六名、合計百三名である。また、教員は四名である。明治九年の生徒数の三倍である。これからも学事の進歩は著しと考えられる。
             明治十六年十二月三十一日調

[26]名勝
 相合松(本村元標より の方角、隔たること 丁、南海の海崖は風光明媚で、この松は中央より二本に分かれ、一つは女松、一つは男松、故に名付けて「相生松」と言う。回りは、六尺、長さは、七間、およそ三百有余年経っていると思われる。

[27物産
米   その質は、やや佳である。産額は、九十五石である。(1石=100升)
   出来高が少ないので、多くの人は買っている。
裸麦 その質はやや良である。産額は二百二十石である。
   出来高が少ないので、多くの人は買っている。)
大豆 その質は、佳である。産額は十一石である。
   出来高が少ないので、多くの人は買っている。)
蒿麦 その質は佳である。産額は五石であり、
   出来高が少ないので、多くの人は買っている。)
蜀麦 その質は佳である。産額は七石であり、
   出来高が少ないので、多くの人は買っている。)
甘薯<サツマイモ> その質は佳である。
   産額は三万一千二百五十斤(1斤は600グラム)であり、輸出入はなく、村内で消費している。
石花菜<テングサ> その質は佳良である。
   産額は三万五千八百六十貫目(1貫は3,75キログラム)この代金は、八千二百五十一円五十  五銭九厘で御座の港より、船積みして大阪まで輸送する。その海程はおよそ百十里余りである。)
鹿尾菜<ひじき>(その質は佳である。産額は六百五十貫目であり、代金四十五円五十銭である。
   輸出は、石花菜<テングサ>と同じである。)
羊栖菜<ひじき> その質は佳である。
   産額は二百三十貫目であり、この代金は百十五円である。
  輸出は御座の港より船積みして多気郡大淀村土路西條村におくる。
  その海程はおおよそ二十里余りである。)
石决明<あわび> その質は佳である。
   産額は八百五十貫目であり、この代金は三百四十円で、
  輸出は御座の港より船積みして大阪あるいは尾州<尾張>の宮、あるいは伊勢の津、あるいは山田の河崎等である。その海程は大阪は前述、尾州宮ヘ三十三里、津ヘは、二十三里、山田河﨑ヘは十六里である。
黒菜 その質は佳である。
   産額は五万一千三百貫目であり、この代金は八百十円であり
  輸出は御座の港より船積みして大阪、或いは、淡州<淡路>の穴ヶ村等である。
  その海程は、百十里、或いは、九十里余りである。
若布 その質は佳である。
   産額は五百六十貫目で、代金は八十九円である。御座の港より船積みして大阪まで輸送する。
  その海程はおよそ百十里余りである。)
海苔 その質は佳である。
   産額は、八百貫目で、この代金三十二円であり、山田の河崎等に輸出している。山田河﨑ヘは十六里である。)
鶏冠菜<トサカノリ> その質は佳である。
   産額は三十八貫目で、この代金十五円二十銭にして、大阪等へ船を使って輸出している。
肥藻 その質は佳である。
   産額は三万五千貫目で、この代金は二百十円である。他へ輸出することなく、村中の耕地の肥料にしている。)
魚産大略 その売上代金を尋ねると、
     鰕(えび)はおよそ四百五十二円、
     鰩(とびうお)は八十円、
     烏賊(いか)は三十五円、
     鯛は六十五円、
     乾魚は三百二円、
     雜魚は百五十七円五十銭この外、数百種の魚類があるが略する。
   最も輸出は本港より船積みして尾州宮或いは山田河崎等である。海程は尾張宮までは三十三里、山田河崎までは十六里である)


[28民業
 全村が農業を専業としている。(但し、農間期は漁業を兼ている。)


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